SHIGEKI STORY863
読む史劇
島津の退き口|敵中突破の先に続いた、薩摩へ帰る道
追撃を引き受けた者、そばを離れなかった者、別の道を帰った者。戦場のあとをたどる。
1600年、関ケ原を抜けた島津勢に、帰還の道が残されていた。義弘と豊久の異なる役割、帰国途中の奉公を記す刊本、禰寝重張の生還の紹介から、突破の先に続く退き口を読む。
第01章
敵を抜けた、その先へ
敵の軍勢を突破して、戦場から退く。島津の退き口を思い浮かべるとき、まず目に浮かぶのは、この逆向きの動きだろう。1600年の関ケ原で、島津義弘の軍勢は西軍の崩壊後、東軍の中央を抜けたと紹介される。
だが、抜け出した先が薩摩だったわけではない。戦場の近くには追撃があり、その先には移動を続ける時間があった。敵中突破の鮮烈な一場面から視線を少し先へ動かすと、帰るための仕事が見えてくる。
後に残った文書には、関ケ原の働きとともに、帰国の途中で大将のそばを離れなかった奉公も記されている。戦いの功績は、敵に向かう瞬間だけに置かれていなかった。道を共に進むことも、評価される働きだった。
今回は、地域の案内が伝える突破と追撃、鹿児島県が公開する史料刊本、別の道を帰った一人の紹介を読み合わせる。関ケ原を離れた後にも続く時間をたどり、退き口を薩摩へ帰るまでの出来事として見ていきたい。
第02章
義弘と豊久、二人の役割
義弘のそばには、甥の島津豊久がいた。岐阜関ケ原古戦場記念館の案内は、二人らがおよそ1500の兵を率いて陣を構えたと説明する。一隊の名の中にも、大将と、そのそばで働く人々がいる。
鹿児島県黎明館は、義弘を1535年生まれ、1619年没と紹介する。南九州から朝鮮出兵、関ケ原へと軍歴を重ねた武将だった。1600年の戦場を、経験の長い義弘は迎えていた。
一方、豊久は敵中突破の先鋒から、追撃に向き合う殿へ役割を変えたとされる。殿は「しんがり」と読み、退く集団の後方を担う役目である。二人の名前を並べるだけでは、この違いは見えてこない。
義弘が帰ることと、一隊の全員が帰ることは、同じ結果ではない。大将の帰還へ話を急ぐ前に、同じ軍勢の中で、誰が進み、誰が後ろを引き受けたかを見ておく必要がある。
第03章
勝敗が決した後の戦場
決戦の日は慶長5年9月15日。当時の暦の日付であり、大垣市が公開する上石津ガイドマップには、新暦の1600年10月21日が併記される。年だけでなく、月日をどの暦で読んでいるかも確かめたい。
記念館は、島津勢が午前中は防御に徹し、西軍が総崩れすると敵中突破したとまとめる。守っていた陣の周囲で、戦況が変わる。勝敗の決まる時と、そこから生きて帰る道を探す時が、同じ戦場で続いていた。
関ケ原の勝敗を知っていても、そこにいた人々の、その後の行動まで一度に分かるわけではない。合戦の終わりを区切りにすると、敗れた側の移動と、追う側の動きが物語の外へ落ちてしまう。
各人が交わした命令や、その瞬間の胸の内は、本稿の資料からは復元しない。戦況と移動の説明を足場にするだけでも、退き口が、勝敗の決した後へ続く出来事だったことは読み取れる。
第04章
前へ進むことで、退く
退却という言葉には、来た道へ引き返す印象がある。上石津のガイドは、島津の行動を前進退却として紹介する。敵のいる側を抜けることが、戦場から離れるための動きになる。
ここでの「前」は、勝利へ攻め続けるという意味だけではない。戦場を離れ、帰る道へつなぐための進み方でもあった。進むことと退くことを、単純な反対の動きとして見ると、退き口の特徴がつかみにくくなる。
ガイドの図には、陣から上石津へ続く流れが描かれる。一方、同じ紙面には、道筋に諸説があり、地元の史料や伝承を中心に構成した案内であることも記されている。分かりやすい線にも、資料の性格がある。
その線を、全員の足取りが確定した記録へ置き換えない。突破して進み、さらに帰るための移動を続ける。その大きな流れを捉えた上で、個々の道筋は、根拠の届く範囲で読む。
第05章
進む人と、後ろを引き受ける人
先へ進む集団の後ろで、追撃も始まる。記念館の史跡案内には、松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らの名が現れる。戦場を抜けることは、それだけで追う側との関係が切れることではなかった。
同じ案内は、先鋒だった豊久が烏頭坂の辺りで殿となり、追撃に向き合ったと紹介する。先を開く位置から、後ろを引き受ける位置へ。一隊の移動の中で、人の担う役目が変わっていた。
軍勢を一つの矢印で描くと、全員が同じ速さで同じ方向へ進んだように見える。けれども、帰る集団を守るために残る人を考えると、その一本の線は複数の働きへ分かれていく。
義弘が戦場から離れることを、義弘一人の力だけで語らない。先へ進む人と、追撃に向き合う人の関係を見ておくことで、帰還を支えた役目と、その代償を考える入口が生まれる。
第06章
捨て奸という名を読む
上石津の案内には、退く途中で小部隊を残し、追撃を足止めする戦い方として、捨て奸が説明されている。「すてがまり」と読むこの言葉は、島津の退き口を語る際によく登場する。
本隊が離れる時間を、後方で引き受ける。進む集団と残る人との関係を考えると、帰還という一つの結果の内側に、異なる役割があることが分かる。言葉の強い印象だけでなく、何を支える働きだったかを見たい。
ただし、名称が知られているからといって、各地点の人数、隊形、号令まで同じ確かさで分かるわけではない。本稿は、誰がどの瞬間に銃を向けたか、どんな最期の言葉を残したかを付け加えない。
帰還できた人の側からだけ物語を見ると、残った人の役目は短い説明で済んでしまう。捨て奸という名を読むことは、成功の結果へ話を閉じず、そこに至るまで誰が何を引き受けたかを問い直すことでもある。
第07章
豊久の最期は、一つに重ならない
豊久の最期を紹介する説明は、一つにそろっていない。記念館は、烏頭坂付近で追撃と戦い、乱戦中に討ち死にしたとも言われると記す。「とも言われる」という範囲を、そのまま残して読みたい。
上石津のガイドは、重傷を負った豊久がさらに進み、白拍子谷で自刃したという経緯を伝える。紙面には、地元の三輪家の後世の子孫が寺へ宛てた文書によって、最期が伝えられたという説明もある。
二つをつなぎ、誰もが目撃した一つの最終場面へ仕立てる必要はない。案内が紹介する説と、地域に残る文書や伝承の説明を並べておく。違いそのものが、豊久の死がどう伝えられてきたかを考える材料になる。
碑や墓が現在の土地にあることも、死の瞬間を直接確定することとは分けて扱う。顕彰された場所を訪ねる道と、当日の出来事を確かめる仕事はつながっているが、同じ証拠だけで終わるものではない。
第08章
山を越え、帰る道をつなぐ
戦場の近くを抜けた後も、義弘本隊の移動は続く。上石津のガイドは、山地を経て近江へ向かう流れを示す。本隊の道と、豊久たちの道は、図の中でも別の線で表されている。
地図を見るときには、まず誰の移動を示しているかを確かめる。一つの隊が分かれれば、その後に通る場所も、その道に残る語りも違ってくる。全員を一筋の帰路へ収めると、その違いが見えなくなる。
今日、記念館が案内する63キロのコースは、サイクリングのための周遊コースである。この現代の距離を、1600年の本隊の行軍距離として使うことはできない。今の道で巡れることと、当時の道筋が確定することは別だ。
山を越える移動を考えながら、分からない地点まで埋めない。一般的な山道の情景は、旅の続くことを想起させるための創作であり、五僧峠や本隊の精密な経路を復元した図ではない。
第09章
そばを離れない奉公
戦場から帰国へ、視線を文書へ移す。鹿児島県が公開する『薩藩旧記雑録』後編巻50の刊本591頁、文書1211には、維新、すなわち義弘の名義による文書が収められている。
関ケ原での働きに続き、伊勢、近江、伊賀、大和、河内、和泉という国名が並ぶ。帰国途中にもそばを離れず奉公したことを評価し、知行200石を与える内容が記されている。
並んだ国名だけで、各日の宿や通過順を精密に決めることはできない。それでも、帰る途中の奉公が記録に残ったことは確かめられる。敵へ向かう働きに加え、大将と道を共にする働きにも目が向けられていた。
本稿で見たのは、県が公開する刊本の掲載面である。原文書そのものを実見したとは言わない。翻刻された文字から読み取れる内容と、その先へ本稿が考える帰還の意味を分けながら、道を支えた人へ近づいていく。
第10章
別の道を帰った、禰寝重張
同じ巻の590頁、文書1208にも、関ケ原から帰国まで側を離れず、難所をしのいだ働きへの評価がある。しかし、戦場にいた人が皆、本隊のそばを進めたわけではない。
『広報ひおき』2020年1月号の歴史コラムは、禰寝重張の生還を紹介する。義弘本隊とはぐれた重張は、近江で捕らえられ、助命を経て帰郷したと説明される。大将の行程から外れたところにも、帰るまでの時間があった。
市の紹介は、慶長7年1月15日に吉利へ帰ったと伝え、資料によって帰還の記述が異なることも明記する。この日付は当時の暦で読む。本隊全員の帰着日や経路を、この一人の紹介から決めるわけにはいかない。
同じ関ケ原から出発しても、そばを離れなかった人と、離れざるを得なかった人とでは、その後の道が違う。一隊の帰還を語るときには、先に戻った大将の時間だけで、他の人の歩みを閉じないことも必要になる。
第11章
戦場の敵と、戦後の往復
巻50の593頁、文書1217には、井伊直政の名義で、兵庫頭の下向や今後の相談に触れる10月10日の書状が掲載されている。この月日も当時の暦であり、西暦の同じ月日へそのまま置き換えない。
追撃する側として案内に名前が現れた直政が、刊本の文書では、戦後の往復に関わる人物として現れる。戦場で向き合った配置だけを見ていては、その先の関係までは捉えきれない。
一通の書状から、戦後交渉の全体や島津家の処分の理由を説明したとは言えない。本稿がここで確かめるのは、戦場の後にも、文書を通じたやり取りがあったという範囲である。
東京大学史料編纂所の『島津家文書之五』刊行紹介も、関ケ原後の交渉に関係する書状群を説明している。ここでは編纂機関による概観を参照し、原文書の実見や交渉全体の解明とは区別する。
帰ることは、地理的に遠ざかるだけの出来事ではなかった。奉公を評価する文書と、今後の相談に触れる文書を並べると、人を支えて戻る働きと、戦後へ続く関係の両方が、退き口の先に見えてくる。
第12章
退き口を、帰還まで見る
現在の日置市の案内には、関ケ原町、大垣市、多賀町との交流が紹介されている。義弘ゆかりの場所や戦跡を通じ、離れた土地の人々が行き来する。退き口の記憶は、今日の地域間のつながりにも関わっている。
現在の道、後に建てられた碑、地域の伝承、刊本に収められた文書。それぞれが伝えるものを読み分けると、退き口は、敵中突破の一場面よりも広く見えてくる。資料の違いは、物語をたどる手がかりになる。
義弘と豊久、進む本隊と後ろを引き受ける人、そばを離れなかった奉公と別の道を帰った人。帰還という同じ言葉の内側にも、異なる役割と、異なる時間が重なっていた。
関ケ原を抜けることは、帰る道の始まりだった。どこまで分かり、誰の働きが記録に残り、何が伝承として伝えられたのか。戦場のあとへ目を向けることで、島津の退き口を、薩摩へ帰るまでの出来事として読み直せる。
本作の読み方
史実と再構成について
敵中突破のあとへ視線を移し、追撃を引き受ける役目、帰国途中の奉公、異なる帰還の道から島津の退き口を読む。
公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。
Timeline
物語の時間
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黎明館は島津義弘の誕生年を天文4年と紹介する。
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関ケ原合戦。ガイドは新暦10月21日を併記し、敗戦後の敵中突破を説明する。
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刊本の文書1208・1211に、帰国まで側を離れなかった奉公への評価が記される。
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文書1217の井伊直政名義の書状が、兵庫頭の下向と今後の相談に触れる。
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日置市の紹介では禰寝重張が吉利へ帰還。帰還記述に異同があることも明記。
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日置市は関ケ原町・大垣市・多賀町との交流を紹介する。
Sources
参考資料・出典
- 岐阜関ケ原古戦場記念館・島津義弘コース 岐阜関ケ原古戦場記念館 参照日: 2026-10-11
- 大垣市公開・上石津ガイドマップ 大垣市公開・大垣観光協会 参照日: 2026-10-11
- 鹿児島県公開・薩藩旧記雑録後編巻50(頁590–593、文書1208–1217) 鹿児島県 参照日: 2026-10-11
- 鹿児島県黎明館・島津義弘像 鹿児島県歴史・美術センター黎明館 参照日: 2026-10-11
- 広報ひおき2020年1月・禰寝重張の関ケ原生還劇(紙面20頁) 日置市 参照日: 2026-10-11
- 日置市・姉妹都市・友好都市 日置市 参照日: 2026-10-11
- 岐阜関ケ原古戦場記念館・島津退き口サイクリングコース 岐阜関ケ原古戦場記念館 参照日: 2026-10-11
- 東京大学史料編纂所・大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之五 刊行紹介 東京大学史料編纂所 参照日: 2026-10-23
