SHIGEKI STORY637
読む史劇
箱館戦争――旧幕府軍はなぜ北へ向かったのか
艦隊、仮政権、開城の手続きをたどる、戊辰戦争の終幕。
江戸城開城後も、榎本武揚らは艦隊とともに北へ向かいました。五稜郭に置いた仮政権は何を目指し、誰が役職を選んだのか。開陽丸の喪失から翌年の降伏までをたどり、北への移動を支えた軍事力と政治構想を読みます。
第01章
北へ向かった艦隊
江戸城が明け渡された後も、戦争は終わりませんでした。1868年、榎本武揚らの艦隊は品川沖を離れ、やがて蝦夷地へ向かいます。最後の拠点となったのは、箱館と五稜郭でした。
なぜ、旧幕府軍は北を選んだのでしょうか。そこには、引き渡しを拒んだ軍艦と、幕府が崩れた後の徳川家の人々の行き先という問題がありました。
榎本らは北の拠点で軍を動かすだけでなく、役職を選び、領事へ通知を送り、行政を担う組織を作ろうとします。艦隊の移動と政治の仕組みを重ねると、単なる逃走という言葉だけでは収まらない経過が見えてきます。
軍艦をどう扱うか、人々はどう生きるか、北の土地を誰が治めるか。この三つの問いから、戊辰戦争の終幕をたどります。本稿の歴史上の月日は当時の旧暦です。
第02章
江戸城と軍艦の行き先
榎本武揚は、幕府の留学生としてオランダへ渡り、航海術や国際法を学んだ人物でした。帰国後に幕府の海軍を担いますが、江戸城が新政府へ渡っても、軍艦の引き渡しには従いませんでした。
国立公文書館は、1868年八月十九日夜、開陽丸を含む八隻を率いて品川沖を離れた際の書簡などを紹介しています。展示解説に現れるのは、新政府への服従を拒む榎本の立場です。
城の受け渡しが済んでも、海上に残った艦船の帰属まで同じ一つの決定に収まったわけではありません。艦隊という軍事力を保持した勢力が、その後も行動を続けたのです。
その出発を、後の勝敗をすべて見通した計画として描くことはできません。しかし、幕府の終わりと軍事力の消滅が同時ではなかったことは、北へ向かう経過を考える出発点になります。
第03章
鷲ノ木から五稜郭へ
十月二十日、艦隊は鷲ノ木に到着します。今の北海道森町にあたる場所です。函館市の解説によれば、上陸した旧幕府軍は数手に分かれ、五稜郭へ向かいました。
十月二十六日には、箱館府の兵が去った五稜郭を占領します。さらに松前や江差方面へと進み、北の拠点を広げていきました。
函館市史がたどる仮政権の構想では、徳川家による蝦夷地開拓が重要な位置を占めています。新政府に抗する軍事行動と、徳川の人々のための土地支配の主張が、同じ動きの中にあったのです。
ただし、開拓を掲げた土地は無人の空間ではありません。後に送る通知にも、日本人住民とアイヌ民族への言及が現れます。軍側が土地の領有を主張したことと、そこに暮らす人々の同意が確かめられたことは、分けて読む必要があります。
第04章
城郭であり、役所でもあった
五稜郭は、この戦争のために榎本たちが新しく建てた城ではありません。国立公文書館の解説では、幕府が1857年から1864年にかけて築いた洋式城郭とされています。
五つの突角部を持つ星形の城郭の中には、箱館奉行所が置かれていました。政治を担う役所と、海岸防備に関わる施設が重なる場所だったのです。
函館市は、奉行所の仕事を蝦夷地の統治、開港に伴う外国との応接・交渉、海岸防備と説明しています。幕府から新政府へ引き継がれたこの拠点を、旧幕府軍が占領しました。
星形の輪郭だけを眺めると、最初から最後の決戦のための城に見えます。しかし、その中で行われていた行政の仕事にも目を向けると、榎本らがここを本拠とした政治的な意味が見えてきます。
第05章
誰が役職を選んだのか
十二月十五日、榎本を総裁とする仮政権が成立します。函館市史は、役職を決めた入札、すなわち投票について、複数の記録を紹介しています。
総裁や副総裁、陸軍奉行、海軍奉行など、軍と行政をまとめる役職が置かれました。軍の集団を、役職を持つ組織として整える動きです。
ただし、役職を選ぶ仕組みがあったことと、誰でも投票できたことは違います。市史によれば、参加は士官以上に限られ、箱館の市民が広く参加したものではありませんでした。
後世に「蝦夷共和国」と呼ばれることもありますが、その名から現在の普通選挙や市民の国家を思い浮かべると、当時の組織を取り違えます。誰が選び、何を選んだのか。その具体的な範囲を見ることが、仮政権を理解する手掛かりになります。
第06章
領事へ何を知らせたか
函館市史には、各国領事に宛てた通知の翻訳が掲載されています。そこでは、徳川の血筋の人物を迎えるまでの仮の行政組織という趣旨が述べられています。
役職を選ぶ行為も、この暫定的な仕組みの中に置かれていました。榎本らは軍事的に土地を押さえるだけでなく、組織の成り立ちや支配の理由を外へ説明しようとしていたのです。
通知は、地域の占有や住民の支持を強く主張しています。しかし、これは政権自身が外部へ示した説明です。そこに記される住民の信頼を、全住民の同意を確かめた調査の結果として読むことはできません。
領事へ知らせた行為も、独立国として正式に承認された証拠とは別です。この通知からまず見えてくるのは、自分たちをどう位置づけ、他者へ伝えようとしたかという政治の姿です。
第07章
旗艦・開陽丸を失う
仮政権が整う前に、艦隊は大きな軍艦を失っていました。開陽丸です。オランダで建造されたこの船は、江差沖の荒天で座礁し、沈没しました。
江差町の解説は、その日付を明治元年十一月十五日と示しています。陸上で拠点を広げる動きと、海で艦船を失う出来事が、同じ時期に進んでいました。
船は兵器を運ぶだけでなく、人を移動させ、海上から陸軍を支える手段でもあります。艦隊を率いて北へ来た勢力にとって、旗艦の喪失は重大でした。
ただし、この沈没だけですべての敗北が決まったわけではありません。その後の上陸作戦や港の戦い、周辺陣地の喪失も重ねて見ることで、一隻の船を失ったことと戦争全体の経過がつながります。
第08章
室蘭へ向かった開拓方
開陽丸を失った後、艦長や乗組員の一部は、開拓を担う役職へ移りました。函館市史には、翌年一月、開拓の基地にしようとした室蘭へ人々が船で向かったことが記されています。
海軍の人員を、土地を開く仕事へ振り向けようとする動きでした。北へ来た理由は、軍艦を保持して戦いを続けることだけでは説明できません。
一方で市史は、開拓方の業績といえる成果は確認できないとしています。計画を掲げること、人を現地へ送ること、成果を残すことは、同じではありませんでした。
春には新政府軍との戦いが始まります。構想がなかったと切り捨てることも、掲げた理想が実現したと語ることもできません。軍事拠点と政治構想を持ちながら、長く継続する条件を得られなかった組織の姿が残ります。
第09章
城の外で進んだ戦争
1869年四月、新政府軍が乙部へ上陸し、反撃が始まります。箱館へ迫る陸軍と、港へ入る艦船の動きが、旧幕府軍の拠点を圧迫しました。
五月十一日には箱館への総攻撃が行われます。函館市の解説は、港内の艦船の戦い、弁天岬台場、四稜郭など、五稜郭の外にある拠点も含めて経過をたどっています。
箱館戦争は、星形の城の中だけで完結した戦いではありません。港や周辺の陣地とのつながりを失えば、郭が残っていても、そこを拠点とする戦い方は変わります。
翌日からは港内艦船による砲撃が始まり、郭内の奉行所庁舎にも命中したと記されています。陸と海、城と周囲を合わせて見ると、最後の拠点が追い詰められていく過程が見えてきます。
第10章
交渉から開城へ
五月十八日、榎本らは降伏し、五稜郭が明け渡されました。函館市史は、そこへ至る使者の派遣、会談、明け渡しの条件の提出をたどっています。
十七日には榎本と松平が会見の場に出頭し、その夜に降伏の実行箇条が提出されます。指導者が翌朝に軍門へ赴くことと、郭内の兵が午後に外へ出ることは、時刻を分けた手続きでした。
十八日、兵士たちは箱館へ護送され、寺院などに収容されました。続いて武器や兵糧が引き渡され、施設の受け渡しが行われます。
最後の一発で突然すべてが止まったというより、戦闘を終える交渉と、兵や物資を移す具体的な行為が積み重なったのです。「開城」という短い言葉の背後には、人々をどう扱い、武器を誰が管理するかという問題がありました。
榎本ら指導者は、その後、本州へ送られます。こうして、箱館を拠点として続いた旧幕府軍の抵抗は終わりました。
第11章
戦後の場所と人生
戦後の五稜郭は新政府の管理へ戻ります。1871年には奉行所など多くの建物が解体され、後には陸軍の練兵場として使われました。
現在の景観は、戦争当時の建物がすべてそのまま残ったものではありません。函館市は、奉行所が2010年に復元されたことや、築造当時から残る兵糧庫、地面に示された建物の遺構を紹介しています。
当時の遺構、後世の復元、公園としての整備を分けると、今の五稜郭を、戦場の記憶だけでなく、その後も使われ続けた場所として読むことができます。
降伏した榎本の人生も、この戦争で終わりませんでした。国立公文書館の解説によれば、後に放免されて開拓使に出仕し、明治政府の大臣を務めています。戦った相手の政府で働くという経歴は、一度の敵味方の区分だけでは人の一生を説明できないことを示します。
第12章
幕府の後の行き先
旧幕府軍が北へ向かった背景には、引き渡しを拒んだ艦隊と、徳川家のために蝦夷地を開く構想がありました。軍事力の行き先と、人々の行き先が重なる選択だったのです。
五稜郭を本拠とする組織は、役職を選び、外へ通知し、行政と軍事を担おうとしました。しかし、投票の参加者は限られ、開拓の成果も、掲げた構想とは分けて見る必要がありました。
旗艦の喪失、新政府軍の上陸、港と周辺拠点の戦いを経て、最後には交渉によって城郭を明け渡します。北への移動を、逃走の一語や、理想の実現だけで語ることはできません。
幕府が終わった後、残った軍と人々の行き先をどう作るか。その問いに対して榎本らが試みた政治と軍事の選択が、箱館戦争でした。
編集注記:歴史上の月日は当時の旧暦です。役員選挙の範囲と仮政権の評価は函館市史の説明に基づき、通知にある支配・住民支持の主張を、全住民の同意や独立国の正式承認と同一視していません。挿絵はAI生成による概念情景で、説明図は公開解説を編集・整理した独自制作です。実物の艦船、特定の戦闘、所蔵文書、現在の景観の記録写真ではありません。
本作の読み方
史実と再構成について
北への移動を、艦隊の帰属と徳川家のための開拓構想から読み、役員選挙を市民の普通選挙と同一視しない。
公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。
Sources
参考資料・出典
- 五稜郭の歴史(箱館戦争から現在) 函館市 参照日: 2026-10-09
- 榎本釜次郎脱艦一件書並仏人ブリユウネ等所罰方 国立公文書館 参照日: 2026-10-09
- 函館五稜郭の図 国立公文書館 参照日: 2026-10-09
- 五稜郭内の建物と遺構 函館市 参照日: 2026-10-09
- 開陽丸記念館 江差町 参照日: 2026-10-09
- 函館市史 通説編2 役員選挙と蝦夷地領有宣言式 函館市 参照日: 2026-10-09
- 函館市史 通説編2 五稜郭開城 函館市 参照日: 2026-10-09
