海側の石垣と土手上の砲を描いた創作情景

SHIGEKI STORY2040

読む史劇

神奈川台場|横浜開港の海を守った石垣と技術

港を開くことと海を守ることが、同じ海岸で進んだ時代。

読了目安 6分 1857年の警備命令、1859年開港と着工、1860年完成、幕末から明治の用途変化、1899年撤廃と後の発掘。

1859年の横浜開港の翌年に完成した神奈川台場を、警備命令と建設、三つの稜堡、真鶴の石、石垣の裏側、二本の取渡り道、未確認の基礎構造から読む。礼砲と外交、撤廃後の埋立て、地中に残る遺構までたどる。

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海側の石垣と土手上の砲を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第1章

開港した海に、なぜ砲台を築いたのか

横浜の港が開かれた翌年、その近くの海岸に、砲台が完成しました。神奈川台場です。

外国との交流を始める港のそばに、なぜ大砲を備えた施設が必要だったのでしょうか。港を開くことと、海を警備すること。

この二つを同じ海の上で考えると、開港の風景が少し違って見えてきます。神奈川台場の輪郭と、地中に残った石垣を手がかりに、その役割をたどります。

海に張り出す砲台を想起させる創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第2章

神奈川台場と品川台場は別の施設

台場と聞いて、東京のお台場を思い浮かべる方もいるでしょう。しかし、今回の舞台は横浜の神奈川です。

品川台場と神奈川台場は、場所も建設の経緯も同じではありません。埋蔵文化財センターの解説では、品川の台場は1853年から翌年にかけて工事が始まり、神奈川台場は横浜開港後に築かれました。

どちらも海岸の砲台ですが、別々の場所に、別々の経緯でつくられた施設なのです。

東京の台場公園の公式解説は、第三・第六台場が1926年に国史跡となり、第三台場が1928年に公園として開かれた経過を伝えます。現在残る公園を手掛かりにする場合も、保存の過程と幕末の施設を区別します。東京の遺構を横浜の台場そのものの写真として使うことはできません。

海を望む人物と砲を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第3章

警備命令・開港と着工・完成を分ける

横浜市の年表を順に見ると、1857年、幕府は松山藩に神奈川の警備を命じています。そして1859年、開港と同じ年の出来事として、神奈川台場の着工が記されています。

完成は翌1860年、万延元年でした。警備の命令、港が開かれた年、砲台が完成した年。

この三つを分けることで、開港に向けた警備と、台場の建設が重なり合う時間の流れが見えてきます。

土手の近くで作業する人々を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第4章

幕府の命令と松山藩の工事

横浜市の解説は、幕府が伊予松山藩に建設を命じ、勝海舟の設計で台場を築いたと説明しています。設計者の名前だけで、この工事を語り尽くすことはできません。

海辺に石を積み、土を入れ、施設を形にするには、人と資材が必要です。台場をつくる仕事は、完成図を描くことだけではありませんでした。

幕府の命令と、建設を担った藩、その現場を支えた仕事を、同じ施設の中に見ていきましょう。

2017年の県埋蔵文化財センター講座資料は、横浜市教育委員会の講師が神奈川台場を紹介し、普請を伊予松山藩、遺構を石垣・取渡り道、調査を発掘調査と整理しています。設計・建設・発掘で確認された対象は、それぞれ別の問いです。設計者の名だけから、現場の仕事の全てを復元することはできません。

折れをもつ石垣と土手を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第5章

三つの稜堡と半星形の輪郭

神奈川台場は、海に張り出す形で築かれました。ただし、その姿を単純な円弧だけで描くと、輪郭の特徴を落としてしまいます。

埋文よこはま三十九号は、三つの稜堡を備えた半星形の構えを説明しています。稜堡は、外へ張り出した部分です。

掲載された台場の図を見ると、出入りのある輪郭と、内側の空間が分かります。海へ向けた大砲の配置と、施設を囲む土手は、一つの防備の形をつくっていました。

石の切出しと作業を想起させる創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第6章

真鶴の石と資材の調達

台場の石垣には、どのような石が使われたのでしょうか。埋蔵文化財センターは、神奈川台場では真鶴半島の安山岩が主に使われたと説明しています。

完成した石垣の表面を見るだけでは、石を切り出し、必要な場所へ集めるまでの仕事は見えにくいものです。しかし、その材料は、台場の敷地の中だけでそろったわけではありません。

海防の施設は、遠くの産地と建設現場を結ぶ資材の供給にも支えられていました。

箱根ジオパークの真鶴半島採石場跡の解説は、海岸に残る矢穴の跡と、安山岩の産地の歴史を伝えています。小松石にも半島側と内陸側の呼称の違いがあります。産地の広い歴史と、神奈川台場に実際に使われた各石の丁場・運搬経路が確定したことは同じではありません。

石垣を積む作業を想起させる創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第7章

表面の石と、その背後を支える構造

石垣は、表に見える石だけで成り立っているわけではありません。発掘成果を紹介する三十九号には、石の背後に、別の石や細かな礫を詰める構造が示されています。

表面を形づくる石と、その後ろを支える部分。そして、その下の地盤。

目立つ一枚の壁の奥に、重さを受け、石を安定させる工夫が重なっています。整った表面だけを眺めるより、裏側まで考えることで、台場を築く技術が見えてきます。

橋と道でつながる砲台を想起させる創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第8章

陸地へ延びる二本の取渡り道

海に張り出した台場の本体からは、陸地へ二本の道が延びていました。東と西の取渡り道です。

西側の調査では、道の一部が切れ、橋が架かっていた部分や、水が流れるところの構造が確かめられています。人や物が通る道には、台場の本体とは異なるつくりもありました。

二本の道は、陸と砲台を結ぶための部分です。海上の施設を、陸から切り離された孤立した島としてだけ見ることはできません。

水面に接する石垣を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第9章

本体の石垣下には未確認の部分がある

石垣のさらに下は、どうなっていたのでしょうか。ここでは、分かっていることと、まだ確かめられていないことを分ける必要があります。

三十九号では、神奈川台場の本体の石垣の下にある構造は、発掘調査で確認されていないとされています。別の台場で見つかった杭や木の土台を、そのまま神奈川台場にもあったと描くことはできません。

一方、取渡り道では地層を使った構造が調べられています。場所ごとの証拠を分けて見ることが大切です。

土手上の砲と海を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第10章

海防と、港で交わされる外交儀礼

大砲は、戦闘だけのために使われたのでしょうか。神奈川台場では、祝砲や礼砲の発射も行われました。外国との儀礼に関わる役割もあったのです。

三十九号は、横浜の外国人居留地との関係も説明しています。海を監視する防備と、港で交わされる外交儀礼。同じ施設の大砲に、複数の役割が重なっていました。

ただし、台場の管理や用途は、幕末から明治にかけて変化します。完成から廃止まで、ずっと同じ姿だったわけではありません。

開港に伴う別の施設として、横浜税関の2019年リーフレットは、1859年の神奈川運上所設置を説明しています。台場での警備や礼砲と、運上所での貿易・貨物に関わる行政は役割が異なります。同じ港の開放を支えた施設でも、神奈川という共通の名だけで同一施設にはしません。

地中の石垣調査を想起させる創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第11章

撤廃、埋立て、移された石と地中の遺構

台場は1899年に撤廃され、その後、周辺の埋め立てが進みました。かつて海に面していた施設は、変わっていく市街地の中へ取り込まれていきます。

現在、見える石の一部だけから、台場全体の姿を思い描くのは容易ではありません。さらに、元の場所に残る石垣と、移されて紹介されている石も区別する必要があります。

地中の遺構、記録の図、後の写真。それぞれが示す時代と場所を照らし合わせることで、失われた輪郭に近づけます。

39号の散策図は2019年刊行時の案内であり、現在の見学可能範囲を保証するものではありません。また、同号に載る西取渡り道の絵はがきは1899年以降の撮影と推定されています。撤廃後の写真を、1860年の完成直後の写真として受け取らないよう注意します。

石垣と入港する帆船を描いた創作情景
説明用のAI創作情景。特定の人物・砲型・工事・採石場・発掘現場の記録、台場全体の輪郭・寸法・道・基礎の精密復元、当時や現在の写真ではありません。

第12章

開港の歴史を、土地と技術から読む

神奈川台場は、開港した横浜の近くに築かれた海防の施設でした。そこには、外国船への警備だけでなく、外交の儀礼、資材を集める仕事、石垣を支える技術が重なっています。

いまの街の地図だけでは見えない、かつての海岸線。その上に台場の輪郭を戻して考えると、港を開くことと、海を守ることが同時に進んだ時代を感じ取れます。

神奈川台場の石垣は、開港の歴史を、土地と技術の側から見直す手がかりなのです。

本作の読み方

史実と再構成について

神奈川台場は、開港・海防・外交儀礼と、資材供給・石垣技術が重なる施設であり、記録と地中の遺構を併せて読む必要がある。

公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。

Timeline

物語の時間

  1. 品川台場の工事。神奈川台場と別の建設経緯。

  2. 幕府が松山藩に神奈川警備を命ずる。

  3. 横浜開港と神奈川台場着工。

  4. 神奈川運上所設置。台場とは別の施設。

  5. 神奈川台場完成。

  6. 管理と用途が変わり、祝砲・礼砲の発射も行われる。

  7. 神奈川台場撤廃。後に埋立て・市街地化が進む。

  8. 掲載された西取渡り道の絵はがきの撮影時期。

  9. 品川の第三・第六台場の国史跡指定と第三台場の公園化。神奈川の保存史ではない。

  10. 県講座資料が神奈川台場の普請・遺構・調査を紹介。

  11. 埋文よこはま39刊行。案内図は現在の見学可否の保証ではない。

Sources

参考資料・出典

  1. 神奈川台場跡 横浜市 参照日: 2026-11-04
  2. 神奈川区の歴史年表 横浜市 参照日: 2026-11-04
  3. 横浜の台場と東京の台場の違いについて 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター 参照日: 2026-11-04
  4. 埋文よこはま39 横浜の台場(2019年3月31日) 横浜市ふるさと歴史財団 参照日: 2026-11-04
  5. 台場の歴史 公園として残る国指定の史跡 東京港埠頭 参照日: 2026-11-04
  6. 横浜城郭巡行 発掘された鶴見寺尾城と横浜の城郭概観(近藤匡樹) 神奈川県埋蔵文化財センター 参照日: 2026-11-04
  7. 真鶴半島採石場跡 ジオサイト解説 箱根ジオパーク推進協議会 参照日: 2026-11-04
  8. 神奈川運上所 横浜税関リーフレット(2019年6月) 横浜税関 参照日: 2026-11-04