少量の米を入れた木鉢と布袋、戸口の向こうに田畑が見える創作場面

SHIGEKI STORY1405

読む史劇

天明の飢饉|東北は次の収穫までをどう生きたのか

八戸の供養、三戸の種と農具、米沢の備蓄。土地ごとの記録から、食べつなぎ、再び作付けするための仕事を読む。

読了目安 8分 1783〜1784年を中心とする東北の天明飢饉。背景となる1755年の経験、1771年の草稿、1795年の供養、1802年および1833〜1837年の刊行を含む。

天明の飢饉を、浅間山の噴火や一人の名君だけで説明することはできない。1783年前後の東北を中心に、八戸に残る供養、1784年の三戸の作付け命令、米沢の備蓄と救済の評価をたどる。さらに「備荒草木図」「かてもの」「救荒便覧」の成立と刊行を区別し、危機をしのぐ知識が後の時代へ伝わる過程を考える。

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少量の米を入れた木鉢と布袋、戸口の向こうに田畑が見える創作場面
食べる穀物と次の季節への備えを考える情景。特定の家族や村の記録ではない。 AI生成による創作表現です。

第01章

収穫が戻るまでを、どう生きるか

今年の収穫が足りない。けれども、次の実りまでには、まだ長い時間がある。天明の飢饉を考えるとき、目を向けたいのは、その間をどう生き延びるかという問題です。

十八世紀の終わり、東北の人々の暮らしを、深刻な食料の危機が襲いました。青森県の歴史年表は、1783年から翌年にかけての大飢饉を記しています。一方で、被害も対処も、東北のどこでも同じだったわけではありません。

村に残す種、蔵に蓄えた穀物、外から運ぶ米。そして、危機の後に書き残された経験。土地ごとの記録を手がかりに、人々の命と、その先の暮らしをつなぐために何が必要だったのかをたどります。

現代の机で白紙のノートをめくる手元を表した調査イメージ
年表を比べる現代の調査イメージ。白紙の小道具であり、原史料の複製ではない。 AI生成による創作表現です。

第02章

天明という時間の幅

天明の飢饉は、一日で始まり、一日で終わった出来事ではありません。農林水産省の東北に関する年表では、1782年の項目に天明の大飢饉が置かれています。青森県の年表が挙げるのは、1783年から1784年です。

この違いは、ただちにどちらかの誤りを意味するものではありません。年表ごとに扱う地域や時間の幅が異なる可能性があり、項目の年だけを比べて全国共通の開始時点を決めることはできません。また、現在の県の境界を、そのまま江戸時代の藩の境界に重ねることもできません。

1783年前後の東北を中心に見ながら、後に生まれた対策や書物が、いつのものなのかにも注意が必要です。

曇り空の下の田と茅葺き家屋を描いた創作情景
寒冷条件と暮らしを考える情景。1783年の特定の田や天候の復元ではない。 AI生成による創作表現です。

第03章

寒さに弱い収穫と、暮らしの備え

東北の凶作を考えるうえで、寒冷な気候条件は欠かせません。ただし、寒さだけで人々の暮らしのすべてが決まったと見ることもできません。収穫が減った時、食べるための穀物を確保できるか。蓄えを使えるか。

そして、次の作付けを続けられるか。記録を読み進めると、そうした問いが浮かびます。食料の危機は、その年の田畑だけで完結しないのです。米沢に残る備蓄の仕組みと、三戸の地域に残る作付けをめぐる命令。

離れた土地の記録は、それぞれ違う角度から、収穫と暮らしの間にあった仕事を伝えています。天候の厳しさと、その中で食べ物をどう確保するかを、両方から見ていく必要があります。

灰色の粉に覆われた石や葉を描いた説明イメージ
火山災害を考える説明イメージ。浅間山の実記録や降灰範囲の証拠ではない。 AI生成による創作表現です。

第04章

浅間山の噴火と、飢饉の広がり

1783年には、浅間山の噴火も起きています。気象庁がまとめた火山災害の記録には、火砕流や土石なだれ、川を通じた洪水による被害が記されています。ここで区別したいのは、噴火が直接もたらした災害と、広い地域に及ぶ食料の危機です。

同じ年の出来事だからといって、両者の被害を一つの数字で説明することはできません。火山の被害の記録を、そのまま天明の飢饉全体の犠牲者数として示すのも誤りです。噴火の迫力だけを追えば、東北の村で続いた食料や農作業の問題が、見えにくくなってしまいます。

一つの劇的な出来事にまとめるのではなく、異なる災害の範囲を確かめながら、飢饉の記録を読む必要があります。

木立の中の石段と文字のない石を描いた想像上の風景
供養と記憶を考える想像上の風景。対泉院の実際の供養塔・戒壇石・境内ではない。 AI生成による創作表現です。

第05章

八戸に残された供養

危機の大きさは、その後に残された供養の記録からもうかがえます。八戸市が紹介する藩の年表は、1783年の大飢饉に続いて、翌1784年、新井田の対泉院に供養塔が建てられたことを記しています。さらに1795年には、長者山の念仏堂で、あの飢饉の供養が行われました。

凶作の年が過ぎれば、ただちに記憶まで終わったわけではなかったのです。対泉院の供養塔や石碑について、市の文化財解説は、後世の人々が穀物を蓄えておくようにという教訓も伝えています。命を悼むことと、次の危機に備えること。

その二つが、地域に残された石の記録の中に結びついているのです。

窓辺の机に開かれた白紙のノートを置いた現代の調査イメージ
文章の書き手と評価を考える現代の調査イメージ。「後見草」の実物ではない。 AI生成による創作表現です。

第06章

記録に残る評価を、どう読むか

災害を記した文章には、出来事だけでなく、書いた人の見方も残ります。国立公文書館が紹介する杉田玄白の「後見草」は、その一例です。解説には、飢饉の惨状とともに、領主の対応への評価が示されています。

その中で高く評価されるのが、米沢の上杉治憲、鷹山として知られる人物です。こうした評価は、当時の対応を考える大切な手がかりになります。ただ、優れた領主だと書かれていることと、領内のすべての村で誰一人犠牲がなかったと証明されることは、別の問題です。

記した人は、何を見聞きし、何を称えたのか。記録を尊重するためにも、称賛の言葉から確かめられる範囲を、一歩ずつ考える必要があります。

土の上の鍬と籠、家屋を描いた作付けの創作場面
次の作付けを考える情景。三戸の特定の農家・道具・命令実施場面の復元ではない。 AI生成による創作表現です。

第07章

食べる種と、まく種の間で

飢饉の後にも、田畑の仕事は続きます。青森県史の公開資料には、1784年、三戸の地域で、田畑の作付けを世話する役を任命した文書が載っています。そこには、種にする穀物の持ち高を調べることや、質に入っている農具をめぐる手当が記されています。

今日をしのぐ食料だけではなく、次の収穫に向けた種や道具も、問題になっていたのです。種を失い、道具が使えなければ、次の季節に暮らしを立て直すことは難しい。この文書からは、そうした課題への対応が求められたことを読み取れます。

ただし、命じられた内容が、すべて実行され、成功したとまでは言えません。命令の存在と、その成果を区別して、再び作付けするための課題を見つめます。

木造室内に置かれた収納箱と籠を描いた備蓄の創作イメージ
備蓄を使う仕組みを考える創作場面。米沢の実在の蔵や収納設備を復元したものではない。 AI生成による創作表現です。

第08章

蔵の穀物を、暮らしへ届ける

食料を蓄えることは、危機への備えの一つでした。米沢市の紹介には、農民や町の人々、武士に関わる穀物を蓄える蔵の仕組みが記されています。毎年の蓄えと、天明の飢饉に際しての穀物の放出。

注目したいのは、蔵があるという事実だけでなく、蓄えを使う段階まで含めた仕組みです。穀物を置いておけば、それだけで人が助かるとは限りません。いつ、どのように暮らしを支えるために使うかが問われます。

米沢の例を、一人の英雄がすべてを救った物語だけに縮めると、その仕組みが見えなくなります。蓄えてきたものを危機の中で使うこと。作付けを続ける備えとあわせて、食べつなぐための対応として捉えることができます。

二冊の白紙のノートを机に並べた現代の比較調査イメージ
異なる記録を比べる現代の調査イメージ。白紙のノートに史料本文は再現していない。 AI生成による創作表現です。

第09章

救済の評価と、見落とさない犠牲

米沢の救済策は、なぜ繰り返し語られてきたのでしょうか。備蓄や対応が評価される一方で、その評価を「犠牲は全くなかった」という断定へ置き換えることには慎重さが必要です。公開された研究論文は、餓死者がなかったという伝承と、村の歴史に記された犠牲を区別して扱っています。

救済の意味を考えることと、一つ一つの地域の被害を確かめることは、両立します。称賛を消す必要も、悲劇を隠す必要もありません。ここで見たいのは、だれが完全な善人だったかという結論よりも、危機への対応がどのような形を取ったかです。

地域差を残したまま読むことで、食料を確保する仕組みの大切さと、それだけでは語り切れない人々の経験が、ともに見えてきます。

白紙のノートと無地の本を置いた現代の調査イメージ
草稿から刊行までの時間を考える現代の調査イメージ。「備荒草木図」の原本ではない。 AI生成による創作表現です。

第10章

救荒の知識は、いつ生まれたか

飢饉への備えは、天明の経験だけから生まれたものではありません。国立公文書館が紹介する「備荒草木図」は、一関藩の医師、建部清庵による書物です。1755年の飢饉を経験したことが研究のきっかけとなり、1771年には草稿ができていました。

ただし、刊行されたのは1833年です。書物の草稿ができた時と、印刷されて世に出た時は、同じではありません。一関市博物館の解説は、清庵の後にも校訂が進められ、刊行までに長い時間がかかったことを伝えています。

天明より前の経験がまとめられ、その後の時代にも伝えられた。この時間のつながりが大切です。救荒の知識を、その場限りの工夫だけでなく、世代を越えて積み重ねられた経験として見ていきます。

無地の本と白紙のノートを並べた刊行時期の説明イメージ
後世の刊行を考える現代の小道具。「かてもの」「救荒便覧」や版木の複製ではない。 AI生成による創作表現です。

第11章

後の時代へ引き継がれた備え

米沢で刊行された「かてもの」も、年代を確かめたい書物です。市が紹介する版木の解説は、その刊行を1802年としています。天明の飢饉が深刻になった1783年より、後の時代です。

また、公文書館が紹介する「救荒便覧」の刊行は、1833年から1837年にかけて。こちらも天明の当時に配られた本ではありません。後の対策を、過去の危機の場面へ置いてしまえば、人々がまだ持っていなかった知識や仕組みまで、すでに備わっていたように見えてしまいます。

経験が残され、まとめられ、別の時代の備えへとつながる。その道のりを年ごとに区別すると、災害の記録を残す仕事にも、長い時間が流れていたことがわかります。

鍬、籠、布袋、器を木造家屋の戸口に置いた創作情景
食料と種、農具をつなぐ仕事を表した情景。実際の被災者の持ち物ではない。 AI生成による創作表現です。

第12章

命をつなぐ仕事を、記録から

天明の飢饉を、田畑の不作だけで語り終えることはできません。食料を確保すること。種や農具を整え、次の作付けにつなぐこと。蓄えを、必要な時に使うこと。

そして失われた命を悼み、経験を書き残すこと。八戸、三戸、米沢の異なる記録からは、それぞれの課題が見えてきました。広い地域の出来事を一つの数字や、一人の英雄だけにまとめれば、土地ごとの経験がこぼれてしまいます。残された資料の違いを確かめることは、歴史を遠ざける作業ではありません。

その土地で人々が直面した問題へ近づくための手がかりです。次の実りまでを生きるために、どのような備えと仕事があったのか。天明の記録は、その問いをいまに残しています。

本作の読み方

史実と再構成について

飢饉への対応を、当座の食料、次の作付け、備蓄の放出、供養と記録という異なる仕事から読む。地域・年代・史料の性格を分け、被害ゼロや単一原因を断定しない。

公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。

Timeline

物語の時間

  1. 宝暦の飢饉が建部清庵の救荒研究の契機となる。

  2. 「備荒草木図」の草稿ができる。刊行年とは異なる。

  3. 東北農政局の年表が天明の大飢饉を置く年。全国一斉の開始日を意味しない。

  4. 青森県の年表に記される天明大飢饉。

  5. 浅間山噴火。直接の火山災害と広域の飢饉被害を区別する。

  6. 三戸通の作付け世話役に関する命令と、八戸・対泉院の供養塔建立が記録される。

  7. 長者山念仏堂で天明3年の飢饉の供養が行われる。

  8. 米沢で「かてもの」が刊行される。

  9. 「備荒草木図」が刊行される。

  10. 「救荒便覧」が刊行される。

Sources

参考資料・出典

  1. 江戸時代 農林水産省 東北農政局 参照日: 2026-10-23
  2. 年表で見る青森県の歴史 青森県 参照日: 2026-10-23
  3. 第二回 八戸藩の歴代藩主 八戸市 参照日: 2026-10-23
  4. 天下大変 後見草 国立公文書館 参照日: 2026-10-23
  5. 過去に発生した火山災害 気象庁 参照日: 2026-10-23
  6. 天下大変 備荒草木図 国立公文書館 参照日: 2026-10-23
  7. 天下大変 救荒便覧 国立公文書館 参照日: 2026-10-23
  8. 上杉鷹山とSDGs 社会の取り組み 米沢市 参照日: 2026-10-23
  9. 三戸通田畑仕付世話役の任命 天明4年閏1月22日 青森県史デジタルアーカイブス 参照日: 2026-10-23
  10. 文化財ニュース かてものの「版木」 米沢市 参照日: 2026-10-23
  11. 社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病 民族衛生(J-STAGE公開論文) 参照日: 2026-10-23
  12. 新井田対泉院の文化財 八戸市 参照日: 2026-10-23
  13. 備荒草木図 一関市博物館 参照日: 2026-10-23