海底の木材を記録する潜水者の創作画像

SHIGEKI STORY1785

読む史劇

鷹島・弘安の役|沈んだ元軍船、海底に残った1281年

嵐の物語を、木材・器・武器という手掛かりから読み直す。

読了目安 7分 弘安4年(1281)の鷹島沖沈没船を中心に、文永11年(1274)の図像資料と1980〜2026年の調査を区別する。

長崎県松浦市の鷹島沖に残った船体、碗や壺、陶製の火薬弾。竜骨約12mという実測と船体20m級という推定を分け、文永の役を描く写本と弘安の役の沈没船を読み比べる。海底遺跡の発見から保存、3号船の新しい調査までをたどる。

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海底の木材を記録する潜水者の創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第1章

泥の下にあった船

海の底に、七百年以上前の船の背骨が残っていました。長崎県松浦市、伊万里湾に浮かぶ鷹島。その沖で見つかったのは、弘安の役に結びつく元軍の沈没船です。

海面から二十数メートル。さらに海底の泥を掘った先に、長い木材と、規則的に並ぶ板が現れました。嵐で消えた大船団。その話は、船のどこに残っていたのでしょうか。

今回は、木の船体、陶器の碗、そして火薬弾の本体を手がかりに、千二百八十一年の海へ近づきます。最初に大切なのは、発見された船が、帆や甲板までそろった姿で現れたわけではないことです。残った一部分から、かつての船を読み解いていきます。

海を渡る木造帆船の創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第2章

二度目の襲来、その海へ

蒙古襲来は二度ありました。千二百七十四年、文永の役。そして七年後の千二百八十一年、弘安の役です。鷹島の沈没船が語るのは、後の弘安の役。

元と高麗などの軍が海を渡り、日本側は沿岸の石塁や警固で迎え撃ちました。戦いの中で大船団は暴風雨に襲われ、多くの船が失われ、遠征は撤退に向かいます。ただし、嵐という一語だけで、海の戦いのすべてが説明できるわけではありません。

どの船が、どこで、どのように壊れたのか。文献に書かれた出来事と、海底に残るものを突き合わせる必要があります。博多湾だけを見ていては、この戦いの広がりはつかめません。鷹島の南岸にも、その大きな痕跡がありました。

器の破片を持つ匿名の漁師の創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第3章

漁師の海から、発掘の現場へ

船を探す手がかりは、地元の海にありました。鷹島の南岸では、以前から漁師たちが壺や刀剣、碇石などを引き揚げていました。海中に古い品がある。

その経験が、のちの調査につながります。昭和五十五年、千九百八十年から発掘調査が始まり、陶磁器、船の部材、武器や武具などが確かめられていきました。碇も、船の存在を考える重要な手がかりです。

船を海上にとどめる道具が、その場所に残っている。ひとつの品を眺めるだけでなく、何と一緒に、どの位置から見つかったのかを記録することで、海底は読み取れる遺跡になります。宝物を集めるのとは違う、場所ごと歴史を残す仕事が、ここで積み重ねられてきました。

泥に埋もれた船体材の創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第4章

一号船、海底に現れた背骨

大きな転機は、二〇一一年の秋に訪れます。琉球大学の池田榮史教授らの研究グループが、鷹島の沖で船体を確認しました。現在、一号沈没船と呼ばれる船です。

水深は二十三メートルから二十五メートル。海底をさらに約一メートル掘り下げたところに、竜骨と、その周りの外板が残っていました。竜骨は、船底を縦に通る、背骨のような部材です。

木材を組む匿名の船大工の創作画像
AI生成による船大工と木材の創作画像。元軍船の実測寸法・構法を実証する図ではありません。

第5章

十二メートルは全長か

確認された長さは約十二メートル。けれども、これは船全体の長さではありません。松浦市の説明では、船は二十メートル級と推定されています。

残った部分の実測と、そこから考えられる元の大きさ。この二つを分けると、発見の意味がはっきりします。散らばった木片だけでなく、船の構造がまとまって海底にあったのです。

海底の船底木組みの創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第6章

二号船、板の組み方が語るもの

さらに二〇一四年十月、別の船が発見されます。翌二〇一五年の調査で、元寇の沈没船であると確認された二号沈没船です。こちらでは、船底の木組みがよい状態で残っていました。

板がどちらへ延び、どこで組み合わされているか。それは、船を作った人々の技術に触れる手がかりになります。同じ船からは、中国産の白磁碗、褐色の釉薬をかけた陶器の壺、天目碗なども確認されました。船底の構造と、そのそばの器。

違う種類の証拠が、ひとつの現場で重なります。船を見つけたという知らせの奥には、木材一本、器ひとつを記録して、年代や役割を検討する作業があります。二号船は調査の後に埋め戻され、現地で保存されています。

木材のそばに碗と壺を描いた創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第7章

戦場に、碗と壺がある理由

沈没船から出るのは、戦うための道具だけではありません。碗や壺といった器もあります。海を渡る軍は、人も物資も船で運びます。

戦場を考えるとき、刃や矢だけでなく、船内の暮らしを支える道具も視野に入るのです。ただし、この壺には何が入り、誰がこの碗を使ったのか。そこまでを、形だけで言い切ることはできません。

出土した陶磁器の年代や作られた地域、器の種類の組み合わせを調べ、船の部材や武器と照合します。文化庁の資料は、こうした比較から、弘安の役で沈んだ元軍船の積載品と判断された過程を説明しています。ありふれた器にも、海を越えた船団の具体像へつながる情報が残っています。

東京国立博物館所蔵の陶製てつはうG-3308の写真
てつはう(G-3308)東京国立博物館所蔵/出典:ColBase(参考資料10)。実物資料の写真(原画像を加工せず掲載)。陶製の本体で、中身は現存しません。表面の整理表示を中世の銘文とは解釈しません。

第8章

陶器の球、てつはう

もうひとつ、目を引く道具があります。てつはうです。名前から鉄砲を思い浮かべるかもしれませんが、東京国立博物館が所蔵する鷹島神崎沖の出土品は、陶製の火薬弾の本体です。

鎌倉時代、十三世紀のものとされ、明治時代に引き揚げられました。現在、この資料の中身は残っていません。博物館の解説では、もとは鉄片や陶器の破片などを詰め、破裂を利用する兵器だったと説明されています。

国立公文書館所蔵蒙古襲来絵詞写本216-0002の図
蒙古襲来絵詞(写本)国立公文書館所蔵 216-0002(参考資料8)。1274年の文永の役の場面を描く写本の図(原画像を加工せず掲載)。1281年の鷹島の沈没や、上掲のてつはうそのものを記録した図ではありません。

第9章

絵と実物のあいだ

一方、蒙古襲来絵詞には、てつはうと呼ばれる火器が炸裂する場面が描かれています。絵にある武器と、海から出た実物。

その両方を見ることで理解は深まりますが、絵の一発と目の前の一個が、同じ場所で使われた同じ品だと決めつけることはできません。

ここに掲げる国立公文書館所蔵の写本図は、1274年の文永の役の場面です。1281年の弘安の役で鷹島に沈んだ船とは、年代と資料の性格を分けて読みます。

木板を調べる様子を描いた創作画像
AI生成による木板調査の創作画像。3号船出土の墨書木板の実物写真・釈文ではなく、判読文字や用途を示しません。

第10章

三号船、まだ終わらない発見

調査は、一号船と二号船で終わっていません。松浦市は二〇二四年十月、三隻目となる三号沈没船を確認しました。場所は水深約十八メートル。

船体とともに、陶磁器や金属製品なども確かめられています。二〇二五年度には、竜骨と、その接合部分が確認されました。そして二〇二六年四月、三号船から出た墨書木板について、松浦市教育委員会が発表を行っています。

木に書かれた文字も、海底から歴史を読み解く対象になったのです。ただし、船の全容はまだ解明されていません。新しい資料が見つかるたびに、すべてが分かったことになるのではなく、何が確かで、何を調べる必要があるのかが、少しずつ具体的になっていきます。

海底へ向かう潜水者の創作画像
AI生成による説明用の創作画像。実際の発掘記録写真・出土位置図・船体の精密復元ではありません。人物は匿名です。

第11章

掘り出した後にも、仕事が続く

なぜ、見つけた船をすぐ陸へ上げないのでしょうか。少なくとも二号沈没船について、松浦市は、埋め戻して現地保存し、定期的な調査で劣化を確かめる方針を説明しています。発見と引き揚げは、同じことではありません。残った船体を守り、状態を確認して、次の調査へつなぐことも、遺跡を扱う大切な仕事です。

二〇一二年三月二十七日、鷹島神崎遺跡は、海底遺跡として日本で初めて国の史跡に指定されました。海の底も、保護すべき歴史の場所として扱われています。私たちが画面で目にする船の姿は、調査で確かめられた範囲です。見えていないところまで勝手に埋めるのではなく、残ったものを丁寧に読むことで、次の発見への道が残ります。

木材と器を並べた展示風の創作画像
AI生成による展示風の創作画像。実物資料の収蔵写真や、同じ場所から出土した一括資料の記録ではありません。

第12章

海底から見えてくる弘安の役

鷹島の海に残ったのは、勝敗を告げる一枚の記録ではありませんでした。船を組んだ木材、器、武器。遠征を支えた具体的なものが、別々の角度から同じ時代を照らしています。

十二メートルの竜骨は、船全体をそのまま見せるものではない。それでも、絵や文字で知っていた船が、実際にこの海を渡り、この場所に残ったことを、目に見える手がかりに変えました。器があれば、船の中で過ごした人々へと視線が向きます。

新たな船が見つかれば、まだ見えていない部分があることにも気づきます。弘安の役を、嵐の場面だけで終わらせない。泥の下に残った船と道具から、七百年以上前の海の戦いを、もう一度見つめてみてください。

画像について:本記事の説明用情景にはAI生成画像を使用しています。発掘記録写真や船体の精密復元ではありません。てつはうと蒙古襲来絵詞写本の資料画像は、各図の所蔵先・出典表示をご覧ください。

本作の読み方

史実と再構成について

弘安の役を暴風雨だけで説明せず、残存船体と積載品、文献・絵画の異なる性格を区別して理解する。

公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。

Timeline

物語の時間

  1. 文永の役。掲出の蒙古襲来絵詞写本図の場面。

  2. 弘安の役。鷹島沖沈没船と結び付けて検討される来襲。

  3. 鷹島沖の発掘調査開始。

  4. 1号船の竜骨・外板を確認。

  5. 鷹島神崎遺跡が国史跡に指定。

  6. 2号船の発見と元寇沈没船としての確認。

  7. 3号船の確認と、竜骨・接合部分の調査。

  8. 3号船出土の墨書木板について発表。全容・文字の細部は未確定として扱う。

Sources

参考資料・出典

  1. 松浦市・鷹島1号沈没船 松浦市 参照日: 2026-10-29
  2. 松浦市・鷹島2号沈没船 松浦市 参照日: 2026-10-29
  3. 松浦市・鷹島3号沈没船 松浦市 参照日: 2026-10-29
  4. 松浦市・国指定史跡鷹島神崎遺跡 松浦市 参照日: 2026-10-29
  5. 文化庁・史跡鷹島神崎遺跡について(2013年3月22日資料) 文化庁 参照日: 2026-10-29
  6. 文化遺産オンライン・てつはう(東京国立博物館所蔵) 文化庁・東京国立博物館 参照日: 2026-10-29
  7. 広島大学・鷹島海底遺跡墨書木板報道発表 広島大学 参照日: 2026-10-29
  8. 国立公文書館・日本とモンゴル 第1章 国立公文書館 参照日: 2026-10-29
  9. 長崎県・鷹島神崎遺跡文化財データベース 長崎県 参照日: 2026-10-29
  10. ColBase・てつはう(G-3308) 国立文化財機構・東京国立博物館 参照日: 2026-10-29