SHIGEKI STORY773
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ペリー来航・浦賀|黒船を迎えた海岸で、幕府はどう動いたのか
長崎へ案内する。国書を受け取る。四隻を迎えた海岸から、交渉の仕事をたどる。
1853年の浦賀沖への来航から、久里浜での国書受領、1854年の日米和親条約へ。来航前の情報と現場の応対を重ね、聞書・後年の図説・米側の記録を区別しながら、黒船に向き合った幕府の仕事を読む。
第01章
四隻を迎えた海岸で
1853年7月8日、浦賀沖に四隻のアメリカ軍艦が現れた。二隻は蒸気船、二隻は帆船。海岸から見る艦隊の姿が、ペリー来航の印象を形づくっている。けれども、その海岸では、船を見つめるだけでは終わらない仕事が始まっていた。
何を求めて来たのか。誰が応対し、どこで話をするのか。相手の持つ文書をどう扱うのか。艦隊が江戸湾の入口に来たことで、対外関係の仕組みが、目の前の応接という具体的な問題になった。
その仕事を追うと、来航以前に届いていた情報、浦賀奉行所の役人の応対、久里浜に設けられた応接所がつながってくる。船が現れた一日と、その前後に続く判断を重ねることで、海岸の光景にも奥行きが生まれる。
浦賀から久里浜、翌年の横浜へ。場所と日付を置きながら、文書と人の動きをたどってみたい。四隻の船を迎えた幕府が、どのように交渉の入口を作り、その先の条件へ向き合ったのかが見えてくる。
第02章
最初の案内は、長崎だった
国立公文書館の解説には、浦賀奉行所の与力、中島三郎助らが艦隊に応対したことが記されている。与力は奉行の下で実務を担う役人である。彼らは、交渉は長崎で行うようアメリカ側へ伝えた。
長崎には、これまで外国との関係を取り扱ってきた窓口がある。浦賀の役人は、来航した艦隊をその仕組みへ案内しようとした。相手をどこへ通すかという判断は、誰が交渉を扱うかにもつながっていた。
しかし、ペリーはこの案内を拒んだ。彼が求めたのは、江戸湾でアメリカの国書を受け取らせることだった。幕府が示した窓口と、艦隊が要求した場所がかみ合わない。最初の応対から、交渉の場所そのものが争点になっていたのである。
浦賀で応対した人を、驚いて動けなかった人々としてだけ描くことはできない。役人は従来の手順を示し、相手はそれを拒む。そのやり取りから、これまでの窓口で処理できるのかという問題が、海岸の現場に現れた。
第03章
船より先に、知らせは届いていた
艦隊より先に、海外の動きを知らせる文書は日本へ届いていた。国立国会図書館の解説によれば、1840年以降、オランダ商館から「別段風説書」が提出されるようになる。アヘン戦争についての詳しい報告から始まり、海外事情を伝える役割が続いた。
1852年には、オランダ商館長がアメリカ使節の来航を予告している。浦賀に船が現れる前年のことだ。海の向こうの動きを知る経路はあり、幕府へ届いた情報の中に、アメリカの使節という具体的な対象もあった。
外国船への対応も、それまで何も変わらなかったわけではない。1842年には異国船打払令が緩和され、漂着した船へ食料や薪水を与えて退去させる方針が取られていた。来航以前にも、外国船をどう扱うかという判断が積み重なっていた。
ただし、知らせを受け取ったことで、現場に必要な準備がすべて整うわけではない。どこまで情報が届き、誰の行動につながったのか。予告の存在を確認したところで、今度は文書が渡っていく先を見なければならない。
第04章
浦賀の与力が残した批判
その問いに、浦賀で実務に当たった人々の記録が重なる。『浦賀与力より之聞書』は、香山栄左衛門ら五人の与力の話を記したものだ。国立公文書館は、ペリーの離日から一か月余り後に書写された書として紹介している。
解説には、与力の一人による批判がある。アメリカの使節について情報を得ていた上層部が、これを秘して対策を講じず、浦賀奉行への通達も与力には伝わらなかったという。応接を担った側から、情報の扱いが問われていた。
ここで残っているのは、与力が語った立場からの批判である。幕府のすべての役人の考えを代弁する記録ではない。それでも、上層部に情報があることと、応対する人がそれを知らされていることの隔たりを考える手がかりになる。
艦隊へ出向き、要求を確かめる人には、どのような情報が渡っていたのか。黒船の大きさだけを見ていたときには隠れていた問題が、聞書を通すと現れてくる。海岸での対応は、そこへ至る情報の流れとも結びついていた。
第05章
国書の向こうにある航路
ペリーが携えてきたのは、アメリカ大統領フィルモアの国書だった。国立公文書館は、両国の親交と通商の開始を求める書簡と説明している。艦隊を迎える問題の中心には、受け取るよう要求された一通の文書があった。
その背景には、太平洋を渡る蒸気船の航路がある。アメリカと中国を結ぶ航路には、石炭などを補給する中継地が必要だった。日本近海で操業する捕鯨船の安全や、避難できる港を確保する関心もあった。
船が航行を続けるための燃料や物資、危険に遭った船の受け入れ、通商の開始。国書に向き合うとは、こうした具体的な要求に向き合うことでもある。開国という大きな言葉の中に、港と船をめぐる利害が入っていた。
文書を届ける外交と、軍艦を伴って受領を強く求める圧力は、同じ場面にあった。海岸の役人が扱う一通の国書の向こうに、航路、補給、船の安全という、遠くまで続く問題が広がっていたのである。
第06章
六日後、久里浜で受け取る
来航から六日後の1853年7月14日、国書の授受は久里浜で行われた。当時の暦では嘉永六年六月九日。幕府は受領を認め、この海岸に応接所を設けた。
浦賀沖への来航と、久里浜への上陸は、場所も場面も異なる。海上で艦隊に応対するところから、文書を渡す場を陸に用意するところへ進んだ。日本側では、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道が国書を受け取ったと、公文書館は説明している。
国書を受領したことは、その内容をすべて認めたことと同じではない。要求を文書として受け取り、返答するための問題を引き受ける。その段階と、具体的な条件へ合意する段階の間には、なお時間がある。
久里浜の応接所は、一度の上陸ですべてが決まった場所としては捉えきれない。海岸に設けた場で文書を受け取り、翌年へ続く交渉の入口を作る。ここで行われた授受には、その位置を与えておきたい。
第07章
海岸に置かれた警備
久里浜には、国書を受け取る応接所とともに警備の配置があった。『日米初度応接之図説』の公文書館解説は、彦根、川越、会津、忍の各藩の士が、それぞれの持ち場で警備する様子を紹介している。
応接を行う場所を決めるだけでは、海岸の仕事は終わらない。艦船を前に人を配置し、文書の授受を行う場を守る。交渉と警備が、同じ海岸に置かれていたのである。
この図説は、1892年の刊行である。1853年当日に出版された図ではない。編集兼発行人の高野吉五郎は、その日の彦根藩の警備隊の一員だったと説明される。出来事を知る人が後にまとめた図として、そこに重なる時間を意識したい。
警備を置いた事実と、その備えが十分だったかという評価にも距離がある。公文書館は、高野が砲台や弾薬を批判した印象を紹介している。対応は行われていた。その対応を担った人から、備えの不足を指摘する声も残った。
第08章
文書を渡した後も、測量は続く
国書を渡した後も、艦隊の行動は続いた。『江戸湾御固絵図』の解説によれば、アメリカの艦隊は湾内へ入り、測量を行った。文書の授受を済ませることと、船の動きを収めることは、一つの仕事ではなかった。
日本側は、この行動に強く抗議した。艦隊は猿島付近へ戻ったが、なお湾内の測量を続けたとされる。交渉の場の外でも、湾の中で何が行われているかに対応しなければならなかった。
湾の地形や航路を調べることは、艦隊が再び来るときにも関わる。海岸で文書を受け取りながら、海上では軍艦の行動を注視する。来航への対応は、陸の応接所だけで完結するものではなかった。
絵図に記されるアメリカ側の回答は、公文書館の解説では意訳されている。その言葉を本人の逐語的な台詞には置き換えず、測量、抗議、なお続く測量という行動を追う。文書の背後にあった圧力は、その経過にも表れている。
第09章
同じ来航を、異なる場所から記す
応接した側に聞書があるように、来航した側にも記録がある。アメリカ政府は、ペリーの監修の下で『ペリー提督日本遠征記』を編集し、1856年に刊行した。日記やノート、公文書、文献を材料にまとめた書だと、公文書館は説明している。
遠征を実施した側と、浦賀でその要求に対応した側では、出来事を見る位置が違う。記録が豊かだからといって、一冊が双方の経験を同じように伝えているとは限らない。誰がまとめたものかが、読むときの手がかりになる。
浦賀の与力の聞書、米政府が編集した遠征記、1892年刊の応接の図説。いずれも同じ来航に関わるが、作られた時期と形が異なる。本稿は公的機関の関連解説を読み合わせており、それぞれの原本全文を直接読解したものではない。
何が起きたかを追うと同時に、何を通してそれを知っているかにも目を向けたい。記録の名前と年を添えることで、海岸の一日と、それを後へ伝えた人々の仕事が、混ざらずに見えてくる。
第10章
翌年、横浜で結ばれた条約
1854年、ペリーが再び来航し、幕府との交渉が続く。3月31日、横浜の応接所で日米和親条約が結ばれた。前年の久里浜での国書受領から、今度は条約の条件を定める場へ進んだのである。
条約では、下田と箱館の二港を開き、アメリカ船に必要な薪水や食料などを供給し、遭難船の人々を保護することなどが定められた。港を開くとは、船をどこへ受け入れ、何を提供するかを決めることでもあった。
外務省の解説には、下田への領事駐在の承認と、片務的な最恵国待遇も挙げられている。最恵国待遇とは、他国に認めた有利な条件をその国にも適用する仕組みで、この条約では米国側に与える形だった。合意には、港以外の条件も含まれている。
国書を受け取った年と、条約に調印した年を分けて置く。そうすると、要求を受け止めるところから、条件として文書に定めるところまでの道のりが現れる。黒船が来たという記憶に、交渉の内容を重ねることができる。
第11章
和親から通商までの四年
1854年の日米和親条約には、両国の通商に関する条項はまだ設けられていなかったと、国立公文書館は説明している。港への受け入れや補給の取り決めと、貿易の制度を定める取り決めには違いがある。
日米修好通商条約が結ばれるのは、四年後の1858年である。初代駐日総領事ハリスの交渉を経て、通商の条件が定められた。和親条約と修好通商条約は、名前が似ていても、年も合意した内容も異なる。
浦賀沖の四隻、久里浜で受け取った国書、横浜で結ばれた和親条約、その後の通商条約。場所と文書を順に置けば、開国という言葉の中にも、複数の段階があることが分かる。
1853年の海岸から後を見通す私たちは、やがて決まるすべてを、その一日へ重ねたくなる。けれども、当時の人々には、その都度扱う要求と条件があった。年を分けることで、交渉が続いていた時間を取り戻せる。
第12章
黒船の向こうに、人の仕事がある
海岸へ戻ると、最初に見えた四隻の姿のまわりに、別の動きが見えてくる。浦賀では与力が応対し、長崎を交渉の窓口として示した。久里浜では応接所を設けて国書を受け取り、各藩が警備に当たった。
一方で、来航を予告する情報があったことから、その共有や準備まで十分だったとは言えない。聞書や後年の図説には、現場に関わった人の批判も残る。情報を得ることと、それを対応へ結びつけることの間に、問題があった。
文書を受け取り、海上の行動に抗議し、翌年には条約の条件を定める。幕府がどう動いたかという問いには、これらの具体的な仕事を重ねて答えたい。一つの心理で全員を描くより、担った役割と残した記録をたどる方が、対応の姿に近づける。
黒船を迎えた海岸は、船の大きさだけを伝える場所ではない。相手の要求を取り扱い、情報を渡し、文書の形へ進めていく人々の仕事も、そこにあった。浦賀から久里浜、横浜へ続く道に目を向けると、来航の記憶は交渉の歴史へ広がっていく。
本作の読み方
史実と再構成について
来航前の情報、海岸での応対、国書受領と条約の条件を重ね、黒船に向き合う仕事を読む。
公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。
Timeline
物語の時間
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別段風説書が提出され、詳しい海外事情を伝える経路が続く。
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異国船打払令が緩和され、漂着した外国船へ食料と薪水を与えて退去させる方針になる。
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オランダ商館長がアメリカ使節の来航を予告する。
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蒸気船二隻と帆船二隻が浦賀沖へ来航する。
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久里浜に設けられた応接所で、幕府側が大統領国書を受け取る。
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艦隊が江戸湾で測量を行い、日本側が抗議。猿島付近でも測量は続く。
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横浜で日米和親条約が締結される。通商条項はまだ設けられていない。
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ペリー監修の日本遠征記が米政府によって刊行される。
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ハリスの交渉を経て日米修好通商条約が締結される。
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久里浜の応接と警備を伝える日米初度応接之図説が刊行される。
Sources
参考資料・出典
- 黒船と開国 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- 日本の開国と日蘭関係 国立国会図書館 参照日: 2026-10-10
- 浦賀与力より之聞書 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- 日米初度応接之図説 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- 江戸湾御固絵図 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- 日米和親条約(複製) 外務省 参照日: 2026-10-10
- 五ヶ国条約并税則 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- ペリー提督日本遠征記 国立公文書館 参照日: 2026-10-10
- ペリー提督の来航(水師提督ペリー上陸記念式典) 横須賀市 参照日: 2026-10-10
