天守を載せる石の台を描いた創作情景

SHIGEKI STORY1657

読む史劇

保科正之|天守を建てない復興と、会津の備え

将軍の補佐役と会津藩主、二つの立場から読む。

読了目安 7分 17世紀の正之の藩政と明暦の大火を中心に、1712年の計画と1828年成立の言行録を区別する。

天守を失った江戸と、米を備えた会津。将軍家綱を支えた保科正之の歩みから、明暦の大火後の救済・防火と藩政をたどる。1658年の天守台、1712年の未実現の再建案、1828年成立の言行録を区別し、名君の逸話と制度の両方を読む。

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天守を載せる石の台を描いた創作情景
AI生成による城郭の創作情景。江戸城の実景写真や1658年の天守台・石垣の実測復元ではありません。

第01章

天守のない江戸城

江戸城の中心には、天守を載せるための大きな石の台が残っています。けれども、その上に天守はありません。

かつては将軍の城を象徴する建物がそびえていましたが、明暦三年、千六百五十七年の大火で焼け落ちました。翌年に再建されたのは、天守台です。

なぜ、天守まで建て直さなかったのでしょうか。その問いに関わる人物として知られるのが、会津藩主の保科正之。四代将軍、徳川家綱を支えた人物です。

大火後の江戸と会津の政治をたどると、将軍を助ける立場と、一つの藩を治める立場が見えてきます。まずは、その二つの役割を担うまでの歩みから見ていきましょう。

木造の屋敷の廊下を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第02章

将軍の子、保科家の養子

保科正之の父は、二代将軍の徳川秀忠です。三代将軍の徳川家光とは、母を異にする兄弟でした。

国立公文書館の解説によると、正之は見性院のもとで育てられた後、信濃の高遠藩主、保科正光の養子となります。将軍家につながる生まれと、育ててくれた保科家。

この二つを、正之は生涯の背景に持っていました。伊那市の紹介では、幼い時期から青年期までを高遠で過ごしたとされています。

ただし、家族の感情や、出生をめぐる細かな会話までは、この経歴だけから分かりません。後に名君と呼ばれる人物にも、まず一つの家を継ぎ、領地を治める歩みがあったのです。

山あいの道を歩く匿名の旅人を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第03章

高遠から山形へ

正之は寛永八年、千六百三十一年に高遠藩主となり、寛永十三年、千六百三十六年には山形へ移ります。山形市は、二十万石の領地を与えられた正之が、七年間の治世の中で検地や流通網の整備、川の決壊による被害への対応を行ったと紹介しています。

土地を調べ、物が行き来する道筋を整え、水害に向き合う。城を中心とした政治には、こうした日々の課題がありました。

もちろん、実際の仕事は、藩主一人の手で終わるものではありません。

領内の役人や村々の営みも含めて進められたはずです。山形での経験は、後の会津や江戸での働きを考えるうえで、一つの足場になります。

山あいの田畑と木造家屋を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第04章

会津藩主となる

寛永二十年、千六百四十三年。正之は山形から会津へ移り、二十三万石の藩主となりました。

会津若松の歴史紹介では、会津の領地に加え、幕府領の一部を預かったことも記されています。正之に求められたのは、自分の領内を治める仕事だけではありません。

将軍家との血縁を持つ大名として、幕府の政治を支える立場にもなっていきます。ただし、会津の藩政と、江戸での幕府の政務は、同じ組織の仕事ではありません。

米をどう備えるか、領内をどう安定させるかという課題と、将軍を支えて大名たちとの関係を保つ課題。その両方に目を向けると、正之の働きを、ひとつの美談だけで捉えずに済みます。

畳と座卓のある部屋を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第05章

家綱を支える立場

慶安四年、千六百五十一年に、三代将軍の家光が亡くなりました。跡を継ぐ家綱は、まだ幼い将軍でした。

正之は家光の遺言を受け、家綱を補佐して幕政を支えます。家綱から見れば、正之は父の弟にあたる叔父です。

将軍家の近親者であり、大名としての経験も持つ人物が、幼い将軍を助けることになりました。ここで気をつけたいのは、補佐役だったことを、幕府の全てを一人で動かしたという意味にしないことです。

幕府には、将軍のもとに多くの役職や実務の担い手がありました。正之の立場を確かめながら、その時代に起きた大きな危機、明暦の大火へと目を移しましょう。

木造家屋が並ぶ町の道を描いた創作情景
AI生成による火災前の町を考えるための創作情景。1657年の江戸の街区や大火の実写記録ではありません。

第06章

江戸を襲った明暦の大火

明暦三年、千六百五十七年、江戸は大規模な火災に襲われます。内閣府の報告書概要は、明暦の大火を、強い風で燃え広がった三件の大規模火災の総称と説明しています。

当時の暦では一月の出来事ですが、今の暦の一月と同じ日付ではありません。城の天守や大名屋敷、町々が焼け、多くの人が暮らしの場を失いました。

江戸は、幕府が開かれてから人口が増え、都市が広がっていた時代です。一方で、消火の備えや技術は、広範囲に燃え広がる火に十分に対応できるものではありませんでした。

被害を受けた人々をどう救い、同じような被害をどう防ぐか。大火の後には、急ぐべき仕事がいくつも重なっていました。

かまどの鍋と匿名の人々を描いた創作情景
AI生成による炊事の創作情景。描かれた人物は匿名で、幕府の特定の救済現場を再現した記録ではありません。

第07章

人々を救うための措置

家や仕事場を失った人にとって、最初に必要なのは、その日の暮らしをつなぐことでした。内閣府の概要によると、幕府は被災者への給食を行い、焼けた米穀の放出や、資金の下付も実施しました。

資金を与える対象には、大名や旗本、御家人だけでなく、町人も含まれていました。食べ物を届けることと、立て直すためのお金を渡すこと。

救済には、異なる手段が組み合わされています。こうした働きを考えると、復興とは、建物を元の形に戻すだけの仕事ではなかったと分かります。

ただし、これらは幕府の救済活動として説明されるものです。全てを正之の単独の発案や命令として語ることはできません。

木造家屋の間に延びる道を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第08章

町の形を変える復興

江戸の復興では、町の形を見直す対策も行われました。城内にあった御三家の藩邸を移し、跡地を馬場や薬園などにする。

寺社や町人地を外堀の先や新しい土地へ移す。道路を広げ、広小路や火除地を設ける。

内閣府は、こうした防火の強化策を挙げています。また、幕府は定火消の制度を設け、町人の間にも自主的な防火の組織が生まれました。燃えた場所に、ただ同じものを建て直すのではなく、火が広がりにくい空間や、火事に備える仕組みを考えていたのです。

もちろん、これで火災がなくなったわけではありません。それでも、大きな被害を受けた都市が、次の災害への備えを変えていく過程が見えてきます。

石垣と門のある広場を描いた創作情景
AI生成による城郭の創作情景。江戸城の実景写真や1658年の天守台・石垣の実測復元ではありません。

第09章

天守台と天守を分ける

ここで、江戸城の天守に戻りましょう。宮内庁の解説では、大火の翌年、天守台は再建されました。

しかし、天守そのものは再建されませんでした。そこで紹介されているのが、平和が保たれた時代には天守は不要だという、正之の意見です。

天守は、城の全てを指す言葉ではありません。天守がないことと、江戸城そのものが使われなくなったことは、別の話です。将軍の政治の場がある城で、象徴的な高い建物を、もう一度造る必要があるのか。

その問いと、被災した町の復興をどう進めるかという問いは、同じ時代の課題として考えることができます。ただし、工事や支出の細かな決定過程まで、この短い解説から確定できるわけではありません。

机に置かれた無地の冊子を描いた創作画像
AI生成による説明用の無地の冊子。言行録『千年の松』や当時の会議録・再建計画図の原本写真・複製ではありません。

第10章

逸話が伝わるまでの時間

正之の判断を知るには、それを伝える記録にも目を向ける必要があります。国立公文書館が紹介する千年の松は、会津藩士が文政十一年、千八百二十八年にまとめた言行録です。

天守の再建に反対した話も、その中の逸話として紹介されています。大火の当日に書かれた会議録と、後の時代にまとめられた人物の言行録は、同じ性格の資料ではありません。

そして、東京都立図書館には、正徳二年、千七百十二年の天守再建計画の図が紹介されています。

家宣の時代に、新井白石が進めた計画でしたが、実現しませんでした。天守が再建されなかったという結果を、正之による永久の禁止だったと言い換えることはできないのです。

俵を倉へ運ぶ匿名の働き手を描いた創作情景
AI生成による俵を運ぶ創作情景。会津社倉の実物写真・精密復元や、制度の運用を直接記録したものではありません。

第11章

会津で備えた米と家訓

一方、会津の藩政では、日々の暮らしと、将来の危機への備えが結びついていました。正之の政策として挙げられるのが、社倉の制度です。

米を備え、飢えに苦しむ時に人々を救うために使う。会津の家訓にも、社倉を民のために設け、飢えた年には米を出して救い、他の用途に使わないという趣旨の条項があります。

正之は寛文八年、千六百六十八年に、十五か条の家訓を定めました。そこには将軍家への忠勤だけでなく、政治の道理や、人々の暮らしに関わる教えも見えます。

江戸の大火への対応と、会津の米の備えは、同じ制度ではありません。それでも、人々を支える資源をどう使うかという視点から、正之の二つの立場を見比べることができます。

庭に面した畳の部屋を描いた創作情景
AI生成による説明用の創作情景。特定人物の真正肖像、江戸・高遠・山形・会津の実景写真や建物・街区の精密復元ではありません。

第12章

将軍の補佐役、会津の藩主

将軍を支える立場で、江戸の危機に向き合う。一つの藩を治める立場で、人々の暮らしと、将来の飢えに備える。

保科正之の歩みには、そうした二つの役割が重なっています。天守を再建しなかったという有名な話も、焼失した建物、再建された天守台、復興のための施策、そして後にまとめられた言行録に分けて見ると、違った奥行きが生まれます。

ひとりの決断だけで江戸が立ち直った、という物語では捉えきれない仕事がありました。

石の天守台を見上げる時、その上に建たなかった天守と、町で暮らしを立て直した人々の両方を思い浮かべてみてください。正之を知ることは、その時代の政治が何を支えようとしたのかを考える、一つの入口になります。

本作の読み方

史実と再構成について

保科正之の人物像を、江戸の復興と会津の藩政、それを伝えた記録の時期を区別して考える。

公的資料や研究を土台に構成しています。人物の心理や一部の情景表現には、物語・映像上の再構成を含みます。異説がある内容は確定事実として扱いません。

Timeline

物語の時間

  1. 高遠藩主となり、1636年に山形へ移る。

  2. 会津23万石へ転封。幕府領の預かりは本領と区別する。

  3. 家光の死後、家綱を補佐する。

  4. 明暦の大火で江戸城天守が焼失。幕府の被災者救済・防火対策を参照する。

  5. 江戸城の天守台を再建。天守そのものの再建とは異なる。

  6. 家訓15か条を定める。社倉の創設年と同一視しない。

  7. 家宣の時代に天守再建案が作られるが、実現しない。

  8. 大河原臣教が正之の言行録『千年の松』をまとめる。

Sources

参考資料・出典

  1. 国立公文書館 大名・千年の松 国立公文書館 参照日: 2026-10-27
  2. 宮内庁 皇居東御苑・天守台 宮内庁 参照日: 2026-10-27
  3. 内閣府 1657明暦江戸大火・専門調査会報告書概要 内閣府 参照日: 2026-10-27
  4. 会津若松観光ビューロー 会津の歴史・保科松平時代 会津若松観光ビューロー 参照日: 2026-10-27
  5. 伊那市 名君・保科正之公 伊那市 参照日: 2026-10-27
  6. 伊那市 高遠城跡の魅力 伊那市 参照日: 2026-10-27
  7. 山形市 歴代山形城主 山形市 参照日: 2026-10-27
  8. 東京都立図書館 江戸御城御殿守正面之絵図 東京都立図書館 参照日: 2026-10-27